ヒマラヤへ初めて行ったのは40才を過ぎてからだった。
初めてのヒマラヤ
それまで山の経験といえば富士山、雲取山くらい。仕事で山と渓谷社という出版社に顔を出しても、編集部へやって来るカメラマンたちは黒く日に焼け髭をはやした、いかつい男たちばかり。色白で細い僕は編集部へ一歩入った瞬間に「負け」を自覚してしまうのである。
いつしか山と渓谷社は苦手な会社になって足が遠のく。そんな時、友人に誘われてついにヒマラヤに挑戦する機会がやって来た。
レンズ1本の重さにもうろうと
目指すはエベレスト街道の終点、エベレストのベースキャンプまでだ。しかし、初心者の僕を待ち受けていたのはひどい高山病だった。エベレストを眺めることのできる標高4700mの丘に立った時、ほとんど意識を失いかけていた。
200mmの望遠レンズ1本が重くてしかたがない。
その時、目の前の雲が流れてその切れ間の眼下に氷河が見えた。僕は無意識に200mmの望遠レンズをその氷河目掛けて投げ捨てた。レンズは乾いた音を立てながら岩に跳ね返って飛び散って行った。僕はレンズに向って叫んだ。「ざま~みろ」。その様子を見ていた同行の友人は、サトーは気が変になった、と本気で思ったそうだ。
それからの僕は編集部へ胸を張って出入り出来るようになった。なにしろヒマラヤ帰りのカメラマンなのだから。
以後、初回の経験を生かしヒマラヤ地方へは何度も撮影に出掛けている。
さ と う ひ で あ き
1943年、新潟県生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、フリーのカメラマンとなる。
60年代はニューヨークに暮らし、その後、70年代、80年代にかけてはサーフィンを被写体の中心にすえる。
その時に培った自然観をベースに、北極、アラスカ、アフリカ、チベット、南洋諸島など、世界中の辺境を旅し、自然と人間、文化を独特の視野で撮り続け、数多くの作品を発表している。
最近は日本にも目を向け、日本人の心の中に淀んでいる思いのようなものを表現することに精力を注いでいる。主著は「北極 Hokkyoku」「地球極限の町」「口笛と辺境」など多数。「彼は海へ向かう」「西蔵回廊」「伝説のハワイ」など共著も数多い。
日本写真家協会会員