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フォトスポット Vol.12
安治川左岸を上流へ ~後編~

こんにちは。スクエア大阪の伊藤です。
先月の月食の記事では、多くの方から反響をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。残念ながら当日は一部地域を除き天候に恵まれなかったようですが(私も月の出30分前から4時間近く粘りましたがダメでした・・・)、今年は11月19日にも部分月食(といってもほぼ皆既月食)があり、条件も同じように高度の低い月食ですので、ぜひ先月の記事を参考に再チャレンジしてください。

さて、昨年9月から不定期で続いてきた大阪港湾エリアのフォトスポット巡りも今回で一区切り。いよいよ最終回です。もしよろしければ、バックナンバーもご覧になってください。
1回目:2020年9月18日「フォトスポット Vol.8 大正駅~我が故郷港区池島」
2回目:2020年10月16日「フォトスポット Vol.9大阪港周辺」
3回目:2021年2月26日「フォトスポット Vol.10安治川左岸を上流へ ~前編~」
4回目:2021年3月19日「フォトスポット Vol.11安治川左岸を上流へ ~中編~」

前回は、安治川の起源と歴史について江戸時代まで遡りました。今回は安治川の最上流近辺のフォトスポットを巡ります。この辺りは幕末から明治、そして昭和にかけての遺構が点在しています。

【古川跡の碑とその歴史】
前回、「河村瑞賢紀功碑」までご紹介しましたが、そのそばに「古川跡」の碑が建っています。古川とは河村瑞賢が安治川を開削する前に旧淀川本流だった川。安治川が当初「新川」と呼ばれたため、旧本流は古川と呼ばれました(現在は埋め立てられて存在しない)。

古川跡の碑。

碑のそばにある国津橋交差点。
古川に架かっていた橋の名が交差点名・バス停名として残っている。
古川は1952年(昭和27年)、高潮の浸水対策として埋め立てられた。
その2年前に港区・西区一帯に大被害を与えたジェーン台風がきっかけと思われる。
大阪市内には、川がないのに「橋」が付く地名・交差点・駅名がたくさんあるが、
そのほとんどは何らかの理由で埋め立てられた川や堀、運河の名残であることが多い。
大阪メトロ中央線朝潮橋駅付近にあった八幡屋運河も、古川と同時期に埋め立てられている。

【大阪港発祥の地】
古川跡の碑を後にし、さらに安治川を上流に行くと、堤防沿いの道が右に折れて川から離れるところに古い石碑と廃墟があります。ここが大阪開港の地です。大坂は江戸時代も「天下の台所」として国内海運の中心地でしたが、国際貿易港としての歴史は、1868年(明治元年)の大阪開港が始まりです。現在の大阪港は、2回目「大阪港周辺」で紹介した港区築港や大阪南港が中心ですが、開港当時は安治川の上流端に近いこの場所でした。

「大阪開港の地」と「大阪電信発祥の地」の碑。
興味深いのは右側の「大阪電信発祥の地」の碑。
明治3年、ここに川口運上所(後の大阪税関、その後富島・安治川出張所)と川口電信局が開設された。
特にこの川口電信局と造幣局・神戸間に架設された2回線の電信線は、
日本最初の電信線であり大阪の通信インフラの始まりとなった。
現代日本の高度な情報社会の一端がここから始まったと思うと感慨深い。

「川口」という地名が出てきましたが、正確には「富島」という安治川と先ほど紹介した古川に囲まれた小さな島が開港の地です。すでに地名としては消滅してしまい、写真のところで紹介した大阪税関富島・安治川出張所も廃止され廃墟となっていますが、下の写真のように、周辺の看板に地名が残っていました。

「富島」の地名が残る古い看板

2008年に廃止された大阪税関富島・安治川出張所跡。建物は廃墟となっている。

【昭和の香り漂う古い町並みを撮り歩き】
ここまで来ると、安治川の上流端まであと少し。先ほどご紹介した「大阪開港の地」から一旦安治川から離れ、尻無川の方へ向かいます。
戦時中の空襲で大阪市西区と港区の一帯は焼け野原となりましたが、戦後は倉庫や町工場が立ち並びました。最近でこそ再開発で真新しいマンションもあちこちに見られますが、地下鉄の駅や大通りから離れた地区は、まだ倉庫や町工場、昭和の香りが漂う古い町並みが残っています。

(写真左)年季の入った倉庫建屋。
(写真右)裏通りに入ると、まだ昭和の雰囲気が色濃く残っている。
今では少なくなった銭湯(大阪では普通の銭湯を「温泉」というところがある)が営業していた。
入り口では看板猫?がお出迎え。

(写真上)年季の入った倉庫建屋。
(写真下)裏通りに入ると、まだ昭和の雰囲気が色濃く残っている。
今では少なくなった銭湯(大阪では普通の銭湯を「温泉」というところがある)が営業していた。
入り口では看板猫?がお出迎え。

【旧川口居留地】
上の写真のように現在のたたずまいからは想像がつきませんが、江戸末期から大正時代にかけての西区川口一帯は、大阪の文化や流行の発信地と呼ばれるほど栄えていました。その理由が1868年に外国人居留地として整備分譲された「川口居留地」です。
もともと、この地には「大坂船手会所」が設置されていました(「船手会所」とは船番所(通行する船の検査や徴税の担った役所)や組屋敷(ここでは船番所関連の仕事に就いていた人々の屋敷)を含めた、現在の港湾局のようなところ)。開国に向けて大坂船手会所は、当時軍艦奉行を務めていた勝海舟の提言によって廃止され、その跡地が外国人居留地として開放、利用されたのです。ちなみに、廃止された大坂船手の船員の多くは「神戸軍艦操練所」に転属しています。歴史好きの方はここでピンとくるものがあるでしょう。神戸軍艦操練所は、あの坂本龍馬が海軍塾塾頭としてかかわっていた組織です。天保山がなぜ坂本龍馬の新婚旅行の出発地となったかが窺えます(第2回【天保山】を参照)。

(写真左)川口居留地碑。本田小学校敷地の片隅に建っている。
(写真右)大坂船手会所跡碑。現在は川口交差点の片隅に石碑が残っているのみ。

(写真上)川口居留地碑。本田小学校敷地の片隅に建っている。
(写真下)大坂船手会所跡碑。現在は川口交差点の片隅に石碑が残っているのみ。

こうして急速に栄えた川口居留地ですが、外国人居留地としては短命に終わります。開港した大阪港(先ほど紹介した明治の大阪港)の水深が浅く、外国の大型船に対応できなかったからです。外国船は良港の神戸港へ移っていき、それに伴い川口居留地の外国人も神戸へ移転していきました。その後入れ替わるように入居してきたのが宣教師たちでした。その流れで平安女学院・プール学院・立教学院・桃山学院などの関西を代表するミッション系スクールが、ここ川口から発祥したのです。その名残が本田小学校の隣にある日本聖公会川口基督教会。壮麗なレンガ造りの外観だけでなく、ステンドグラスも素晴らしい(現在はコロナウイルス流行中のため見学できない)教会です。

(写真左)日本聖公会川口基督教会。
(写真右)教会向かいには戦前建築の面影が残る建物が。
背景のタワーマンションとの落差が面白い。

(写真上)日本聖公会川口基督教会。
(写真下)教会向かいには戦前建築の面影が残る建物が。
背景のタワーマンションとの落差が面白い。

【旅の終点へ】
旧川口居留地付近からは、安治川上流端まで歩いてすぐ。これまでの町並みとは一転して大通りや高速道路が交差し、大阪中心部の高層ビル群を望む賑やかな雰囲気となります。

安治川上流端と中之島ビル群。

上流端の船津橋から望む安治川。右手に見えるのが現在の大阪の台所である中央卸売市場。
左手がここまで歩いてきた安治川左岸。

最後にちょっとPRです。実は現在スクエア大阪ギャラリーでは、前田義夫写真展「時はゆっくり流れて… Osaka Bay Area」(詳細はこちら)を6月28日(月)まで開催中です。タイトルからもお分かりの通り、図らずもこの連載に通じるテーマで、全てGRIIIのモノクローム作品なのです。そこで今回の写真は前田先生をリスペクトしてGRIII&モノクロームオンリーにしてみました。写真展の作品は、大阪港湾エリアの魅力が見事な感性で切り取られた素晴らしい作品ばかり。このスクエア通信を楽しんで読んでいただいた方なら、必ず満足していただける写真展だと思います。会期中は前田先生が一部時間帯を除いて、ほぼギャラリーに在廊されますので、ぜひ足をお運びください。
また7月10日(土)には、この前田先生を講師に迎えて、写真展の撮影地である大阪市大正区界隈のベイエリアを撮り歩く「GR townwalk 前田義夫先生と撮るOsaka Bay Area」を開催いたします(詳細・申込はこちら)。貸出機材の用意もございますのでGRをお持ちでない方も大歓迎です。ただ定員制ですので参加ご希望の方はお早めに。

結果的に半年以上をかけて掲載してきたこの旅もとうとう終わりとなりました。楽しんでいただけたなら幸いです。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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